1973年
三重県に生まれる。
本の無い家ながら、買ってもらった学習図鑑セットを、ひたすら読んでいたらしい。
(装丁がぼろぼろになった図鑑が押し入れにしまってある。活字中毒である)
小学生
ロイド・アリグザンダー氏の「人間になりたがった猫」を好きになる。
「プリデイン物語」でさらに大好きになり、こんな本を書きたいと思うようになる。
(後に探し回って、シリーズ全巻購入。今でも年に一度は読み返し、タランに会いに行く)
漢字が読めるけど書けないながらも、国語の成績は良かった。
記事をまとめる授業で、「これが二分で出来たら新聞記者か作家になれる」と
先生に言われ、時間内に完成。作家になれるかも、と思い始める。
(先生は忘れているかもしれないが、何気ない一言が人生を左右することはあるものです。ちなみに漢字が書けないのは、今も変わらない。むしろ悪化している)
中学生
友人に誘われテーブルトークRPGにはまる。
(赤青緑まで進んだと思う。他にも色々)
「指輪物語」「ゲド戦記」「ドラゴンランス」「エルリック・サーガ」などのファンタジーを読みふける。
雑誌「ドラゴンマガジン」から田中芳樹氏を知り、「銀河英雄伝説」にどっぷり浸る。
作中に登場する「孫子」に興味を持ち、海音寺潮五郎氏の歴史小説にのめりこむ。
高校生
テーブルトークRPGをなおも遊ぶ。「蓬莱学園」「夜桜忍法帖」などにも参加、オフ会にさえ行くようになる。
アシモフ氏の広大な森に踏み出し、ティプトリー・JR氏の衝撃を受ける。「たったひとつの冴えたやりかた」で涙が出ない人とは友達になれないと強く思う。
大学生
志望していた国立大史学部に成績が足らず、合格していた名城大学法学部へ。
「知り合いに弁護士がいると便利よね」という高校時代の同級生の言葉を真に受けたわけではない、と思うが、学食が安くて美味しかった。
法律家としての将来は一年目で諦めるが、法律を学ぶことは楽しく、またサークル活動でかけがえのない友人たちと出会う。
19歳で初めて長編小説を書き、応募しようとするが提出最終日の郵便局の業務締め切りにワープロ印刷が間に合わず、断念。
(別の賞に出す、という発想はこのときはなかった。また締め切りギリギリまで書く癖は今も治らず)
ローレンス・ブロック氏にバーボンとアイリッシュウイスキーを教わり、連城三紀彦氏に酔う。
ゲーム会社に就職
世間ではバブルが弾け、就職氷河期に突入。ただでさえ人数の多い世代のため、胃壁の柔突起が溶けるほどのストレスに見舞われる。
それでもロボットシューティングなのに謎解きがあり、ダッシュしたときの疾走感がたまらないゲームを制作していた会社に企画職で採用される。
(内定をもらったのはこの一社だけ、日程的に最後の会社であった)
レースゲームのデバックをするも下手で3面から先に進めず、野球を知らないのに野球ゲームに配属され毎日スポーツ新聞を切り抜き、シューティングゲームに配属されたときは企画の先輩が途中でリタイアして一年目にしてチーム唯一の企画となり、格闘ゲームではコマンドが出せず、収録間際のギャルゲーにセリフ書きに投入される。
RPGのチームではこれまでの知識が役立ち、また納谷悟朗、大塚明夫、郷田ほづみ、三國連太郎といった方々に自分の書いた台詞を読んでもらい、感動に打ち震える。
しかし長期間の激務の末、体調を壊してリタイア。
応募生活
ゲーム会社にてホームページ管理人、携帯電話ゲームも並行して担当していたので、webデザインの会社に転職。
ただ、11時~24時というゲーム会社の就業ペースに慣れきった身体に8時出社は厳しく、また「自分の書いたセリフを役者さんに読んでもらう」興奮を忘れられず、退職。
29歳にして小説家を本格的に目指す。
生計を立てるために書店でバイトをしながら、ひたすら書いて応募することに。
最初はミステリー、SF、ホラー、現代恋愛ものなど、そのタイミングで出せる賞に合わせて無計画にバラバラ。
(この頃は書けばすぐにデビューできると思ってたんですね。甘いですねぇ)
二次、三次、と選考に残るものもありつつも、一次にさえ残れないものもあり、書き方を改める。
取材し、資料を読み込み、余裕をもって執筆するようにして第一回朝日時代小説大賞に応募し、一次選考通過。
(この頃、体重激増。これではいかんとビリーズ・ブートキャンプでダイエットに励む。東京・大坂・名古屋でレッスンを受けて体脂肪率9%に到達。今は……またやらなあかんねぇ)
手応えを感じて応募した翌年は二次選考通過。
その翌年は遠方まで取材に出かけ最終選考に残る……が、最後で選ばれず。
大賞に届くかもしれなかったのに逃した落胆は大きく、しばらく何も手につかなかったが、選評で頂いた言葉はまさに鞭撻であり、啓示とも言えるものだった。
気を取り直し、いただいた「宿題」と取り組みながら応募するも、
三次落ち、二次落ちとふるわず、また東日本大震災、ボランティア、その他ゴタゴタが続き、私生活でも恋人との別れやらいろいろとあって落ち込む。
(この頃、心形刀流の居合を習い始める。日常と完全に切り離れた世界に身を置くことは自分にとって良い影響を与えてくれたと思う。長くなるのでこの話は別エントリーにて)
悪いことは重なるもので、正月に出勤すればお年玉さえもらえていた書店も景気の悪化から店舗人員整理を行うことになり、リストラされる。
動転したし腹も立ったし困惑もしたし、「あなたの雇用を守れませんでした」の一言以外、正直面談内容も覚えていないけれど、話が終わる頃には落ち着きが戻っていた。
その場で溜まった有給を全消化する届け出を書くと、翌日から執筆に専念。
テーマは家康の神君伊賀越え。
見知らぬ土地に周りは敵ばかり。生き残るには駆け抜けるしか無い、とは当時の私の心境そのままだった。
書き上がると即応募……をせずに寝かしておくことにする。
書き方本には推敲の重要性が必ず書かれている。私も書き上げたあと、見直し、書き直すことはしてきたが、時間を置くことはこれまでなかった。
そして時給の高さに惹かれて次のバイト先に入るのだが、齢四十を超えて早朝の仕事に体がついていかない。
書いているときはそれこそ日の出とともに眠り、昼過ぎに起きる真夜中型の生活を送っていたのが、5時起きはやはり無理があった。
(やはり私は夜型人間なんだと思う)
スーパーの惣菜の揚げ物担当、次いで練り物の部門に移るが、
賞味期限が翌々日のものを10%値引き、翌日のものを20%または半額シールを貼るという単純な作業でさえ時間がかかり、見落としを連発。上司の人にキレられるのも無理のない働きしかできない。
そんな中、なんとか時間をやりくりして推敲を続けるも、全く書けなくなってしまっていた。
書くためにバイトしているのに書けないのでは本末転倒なので辞め、仕上げるまではと貯金を食いつぶして推敲に打ち込むことに。
そして応募した作品が最終選考に残り、大賞を受賞。
後に改題改稿し、「茶屋四郎次郎、伊賀を駆ける」となる。
前回に選から漏れているので、正直発表までは気が気ではなかった。
またダメかもしれない。
自分にできることはないとわかっていても、来月に選考会、今週に、明日に、と何日も前から何も手につかず気もそぞろ。
だから受賞の電話を頂いた際には、ただ安心しかなかった。
もう不安に苛まれずに済む、終わったんだ、と。
石の上にも三年というが、私は十三年応募して、ようやくデビューできたのだ。
まあ、実際のところ、何も終わってなかった。
むしろそれからが大変になるわけだけれども。
そして現在に至るのです。